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一九八七年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]


ワースト四つ気分よし! 〈外国映画ベストテン〉
群れ(ユルマズ・ギュネイ) 
男たちの挽歌(ジョン・ウー)
(ギュネイ) 
エンゼル・ハート(アラン・パーカー)
大閲兵(陳凱歌) 
サルバドル(オリバー・ストーン)
ハンバーガー・ヒル(ジョン・アービン) 
ルード・ボーイ(ジャック・ハザン) 
アラモベイ(ルイ・マル) 
ダブルボーダー(ウォルター・ヒル)

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〈ワースト〉
ローザ・ルクセンブルグ(マルガレーテ・フォン・トロッタ)
プラトーン(オリバー・ストーン) 
アンタッチャブル(ブライアン・デ・パーマ) 
友よ風に抱かれて(フランシス・コッポラ)

 『ダブルボーダー』は、監督ウォルター・ヒルが『ワイルドバンチ』にオマージュを捧げ、脚本ジョン・ミリアスがメキシコ国境に舞台を移した『地獄の黙示録』リメイクをつくったダブル・ボーナスの凡作。ゲッソリ肉のそげ落ちた二ック・ノルティだけがいい。
 『アラモベイ』はヴィム・ヴェンダースがいった「最後のアメリカ映画」の類いだろう。テキサスの漁民とヴェトナム移民の抗争に材をとった。エイミー・マディガンエド・ハリスも健闘している。ライ・クーダーの音楽が全く『パリ、テキサス』のデジャ・ヴをもたらしてきた。ルイ・マルも『アトランティック・シティ』よりはアメリカの果ての果てに肉迫している。
 『ルード・ボーイ』は素敵だった。ひたすら元気を喪失させるロック映画。
 『ハンバーガー・ヒル』は一種の進駐軍映画だろう。現住民と交差する日常が描かれる前半に価値がある。後半の泥沼の戦闘部分は冗長でリアリティを失い、『キャッチ22』的不条理に異化するでもなく、効果を誤った。
 『サルバドル』はオリバー・ストーンがとんでもない好戦主義者であることを証明している。立派だと讃めているのだ。暴力肯定が自然に発露するままにまかせるのがよい。なまじそれを「ヴェトナム戦争汚かったですね」の良識で自己抑圧した反戦映画を観させられては迷惑だ。それと、北アメリカー中央アメリカー南アメリカが地続きであることを明瞭に教えてくれる冒頭の場面に感心した。
 『大閲兵』は大作である。ビッグである。大きさは信じられる。
 『エンゼル・ハート』はまたしてもミッキー・ローク・スペシャル。原作のなにやら怪しげにオカルティックな一人四役のトリック構成を肉体化したエロティックな存在感は最高。
 『敵』『群れ』はギュネイ映画の見残し。ベストが『エレジー』であり、『群れ』『希望』『敵』『路』と続くだろう。
 『男たちの挽歌』は少々ヒイキ票である。平岡正明の香港映画論に異をかまえる意図はないが、NICs映画は、フィルム・ノワール風が一等好みにあう。アラン・ドロン・スタイルで二挺拳銃を撃ちまくる復讐劇の構図はアジアのNICsの「幻影〈ミラクル〉と奇跡〈ミラージュ〉」に深くかかわっているようだった。
 ワーストを四つも選んでしまって気分がいい。注釈の必要はないだろう。


映像マゾヒスト原一男 〈日本映画ベストテン〉
1000年刻みの日時計(小川紳介) 
ゆきゆきて神軍(原一男)

 毎年同じことを感じるようになったので、毎年同じことを書くことにしようかと思う。
 今年は中国映画を八本観たから、日本映画は八本観る必要はないと思った。必要はないけれどもそれ以上ほまちがいなく観てしまったことである。後悔している。
 ベストにしろワーストにしろ十本はとても選出できない。多すぎる。そこまで熱くなれないのだ。
 例えば『映画女優』は森光子が「ワテは貧乏がイヤや」と嘆くシーンで、『極道の妻たち』は岩下志麻が「サツが来る前にフケるんや」と叫ぶシーンで、各々その関西弁のあまりに日常離れした品の悪さ・セリフの仕込みの下品さに心屈して、そのまま映画館を飛び出してしまったので、むろんそこに到るまで鑑賞の耐えがたさがバニシンング・ポイントに達してしまったからであるにしても、当の作品をワーストと指定しきるまでの判断材料を手にしているとはいいがたい。
 そしてたとえ終りまで見終ったとしてもその判断が確固となるかどうかは保障しがたいという感じだ。
 ことほどさように日本映画一般の現在に対するわたしの対処は冷たい疎遠なものになっている。よほどの義理でもなければ沢山の本数に時間をさくのは不可能だろう。
 原田真人の『さらば愛しき人よ』は好みであるが、これとても海辺の小屋を歩く石原真理子が、このセリフだけはいわないで欲しいと秘かに願ったまさしくその通りの「アトランティック・シティみたい」とモノローグするところで、あやうく席を立ってしまいかけるほどうんざりした。こうした疎遠は長い間の蓄積であるのだろう。ここで立ち止まってそれを分析してみても致し方あるまい。

 単純に日本映画よこれでいいのかと言挙げるそれ自体としてのマナリズムに加担する気もさらさらない。それも一種の熱気であるだろうから。こちらの感性の振幅が確実に鈍磨してきたと認めるほうがよほどに事態は明確になるだろうが。

 圧倒的に二本選べば充分である。本年は。
 基本的に、奥崎謙三は、かつての上官を自宅に襲って射殺するという「最後の決起」をドキュメンタリー・フィルムに撮らせることに計画の主眼を置いていたのだろう。映画の面白さとかいう反応の前にこのことだけは腹に入れておいたほうがいい。
 かれは非常に即物的にカメラに対して自分の共犯者であることを要求した。これは少し前の「運動の映画」にとっては重たいアポリアであったはずのものだが、もとより神軍平等兵は難問に立ちすくむタイプの人ではない。かれは生き残りの戦友を訪ね罵倒し蹴り倒すという個的闘争のヒーローを演じ、「カメラさん、おアップ頂だい」と見栄をきることに、最終的なドキュメンタリー理解を置いていた。
 「運動の映画」の極北を歩む小川紳介の到達と、こうした奥崎に連帯する快楽をもった映像マゾヒスト原一男の所産とが、陽と陰に対称化をされるかのような逸脱した狂気をもつことは偶然ではあるまい。やっとこの二本のみが、日本映画一般の現在から抜き出えたのである。


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「映画芸術」356号、1988年3月


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Jeatals

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