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『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』 [afterAtBL]

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  今世紀最後の独裁者は映画監督だ、とはコッポラの弁。その通り、この映画は独裁者の映画製作にまつわる我執と苦悩と愚挙と、そしてそれら一切の浪費の記録である。
 妻エレノアの『ノーツ/コッポラと私の黙示録』は読んでいたが、要するにPR文書にすぎなかった。メイキング・フィルムが存在することは知らず、15年後にこれを観ることは複雑な感情に運ばれる。
 当時、4歳だった娘ソフィアは『ゴッドファーザー・パートⅢ』の主演女優となり、少年兵の役を演じたラリー・フィッシュバーンは『ボーイズン・ザ・フッド』で父親役をこなしていた。
 コッポラが『闇の奥』の映画化を旧ユーゴスラヴィアの名付けようもない作家ドゥシャン・マカヴェイエフに依頼したのは、『WR:オルガニズムの神秘』が公開されたあとあたりだろうか。
 そういえばコッポラ家のパーティのフィルムには若き日のヴィム・ヴェンダースの後ろ姿(!)がワン・カットだけ映されていた。


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  映画の基調はやはり芸術的苦悩をショーにしてみせる方向である。ただ図体が大きいだけの苦悩が結局は凡庸なものだったことを、フィルムのほうが残酷に暴露してしまうのだろう。妻がまわすヴィデオにむかって「イデア・オデッセイ」と繰り返しつばを吐く独裁者の像は滑稽であると共に物哀しいものだった。
 コッポラのオデッセイアが、内面的には、主演男優を決定したとき、貧しいものに限定されてしまったこと。更にその限定が巨額の契約金で招いたでくのぼうマーロン・ブランドが登場するに及んで絶対的なものになってしまったこと。それをこの映画はさらし尽くした。
 ブランドはオデッセイの結末に演技を提供することを拒否した。最低限の演技すら、かれはしなかったのだ。かれは金が欲しかったのでなければ、自分の少数民族好みを満足させたかっただけなのだろう。
  ハーヴェイ・カイテルが出た部分のラッシュが観られるかと期待したが、外れた。その替わり、クリスチャン・マルカンが出たフランス人植民者農園の幻のシーンを観ることができた。

 『地獄の黙示録』は、すべてを金に変えるアメリカン・ドリームの最後の大がかりな記念碑だ。戦争が映画であり、映画が戦争であるとすれば、これは明確に侵略〈戦争=映画〉なのだ。それは『闇の奥』が、はらわたのよじれるような興奮をもたらす侵略小説であった以上、必然の逃れようもない結末なのだ。
            
           
  『ミュージックマガジン』1992.8


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(後注)ソフィア・コッポラは監督としての才能を開花させ、ラリー(ローレンス)・フィッシュバーンはブラックシネマの第一線スターの位置にあった。『マトリックス』シリーズ以降は、肥満体になる一方だが……。


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