石井聰亙『エンジェル・ダスト』 [afterAtBL]
臨死体験の暗闇のトンネルをくぐっていくような物憂い映像だ。流れるのではない。あちらこちら漂っていくような。トンネルをぬけるとそこはもちろんトンネルなのだ。疑いもなくそうなのだ。
山手線の満員電車を降りると山奥の森の奥の死体の埋まった穴のある山道に出るのだ。この映画はそんなふうにつくってある。
生きているのか死んでいるのかわからないようなシティ浮遊感覚にはぴったりくるんだろうな。深夜のコンビニエンス・ストアで雑誌などをめくっていて、ふとオモテを見ると、ふっと漂ってくるようなゾッとする風景。
この映画の多くの部分はそういうシーンで成り立っている。といっては褒めすぎか。いずれにせよこんな風景は、もうすでにそれと気付かないくらいに見慣れた月並みなランドスケープなので、わざわざ映像にしてもらわないと置き忘れていってしまうようなものなのだ。
現実のほうがウルトラ・スピードでぶっとんでいく時代、人びとは、これをとらえそこなうことに、もうなんの反省心ももちあわせていないだろう。
石井聰亙で覚えているのはその疾走感だ。まさかあの若さがそのまま持続してはいまいかと心配しながら観はじめた。しかし映画が始まって、物憂い夜の都市の死んで死にきれない表情が移動でゆっくりときりとられてくる映像を観てその心配は晴れた。
ここにあるのはまぎれもなく現在のわれわれの姿だ。『爆裂都市』のスピード感はきっちりと拭い去られている。オープニングをつい比較したくなったが、替わりにあるのはだるいようなシーンのゆったりとした移動だ。
身をまかせて観ていると陶酔感に包まれてねむたくなってくる。
注文をいわせてもらえば、サイコ・サスペンスとメロドラマの部分、少し面倒だった。映像が物語を消化しようとするところで、どうしても説明的かつ冗長になってしまう。シーンの飛躍でつなぐ手法で一貫してもよかったのではないか。
どちらにしても、のみこみにくいお話で、説明があれば了解できるという質でもないようなのだから。
ラブ・ロマンスはもう一人のイシイにまかせておいてもよかったのではないか。死体の埋まった穴のイメージが後半に途切れてしまうのが惜しい。
しかしラストのタイトル・バックにゾンビーズの「タイム・オブ・ザ・シーズン」が流れたのにはまいったな。
『ミュージックマガジン』1994.10
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