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鈴木志郎康『映画素志 自主ドキュメンタリー映画私見』 [afterAtBL]

鈴木志郎康『映画素志 自主ドキュメンタリー映画私見』 現代書館 4635円
 志の本だ。ついつい野田真吉の『日本ドキュメンタリー映画全史』と較べてみたくなるが、こちらは体系的なものではなく、あくまで私見でつなげられた系譜だ。
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 私見といっても、並べられたドキュメンタリ・フィルムの内容を辿るだけでも、否応なく立ち現れてくる風景は、ある。それは戦後の、壊死していく無念の、無念の戦後の風景だ。
 きわめて雑然と戦後ドキュメンタリ映画を見ていくだけの作業によっても、このものは追認できる。それを結果として浮かび上がらせたのは、この本の功績だと思う。

 わたしはここに取り上げられた作品はほとんど見ているし(取り上げられるべきだった作品リストも即座に順に浮かぶが)、いくつかは自主上映に関わった思い出と不可分になっているものもある。だからまた、別の映画史が語られるべきだという欲求を重ね合わせないでは、本文を読み進むことが出来なかった。
 しかし、なにより著者の志を貫いているものは、そしてこの本の基調となって
いるのは、一つの作品をあたう限り丁寧に読みこんでいく姿勢だろう。
 作品論・作家論としては手ごたえがあるが、状況論からの要請には慎ましいアプローチしかない。

 この点は著者の資質を超えるのかもしれないが、一本にまとめるにあたっての、一貫した構想を望みたかった。貴重な、だれにもなしえない作業だと思えるので、それがなんとも残念だという気がする。著者は自主製作ドキュメンタリ映画を、市民生活の日常に埋没した怠惰な精神を痛撃するイメージである、と捉えて
いる。
 この姿勢そのものには、講壇の上の教師からいわれるようで、異論のあるわけはないにしても、これでは全く不充分のようにも思える。

 戦後50年にして、すでに戦後を他の日本近代史の流れから隔絶させていた社会要素は、ことごとく圧殺され均質化され尽くしてきている。
 ドキュメンタリ映画の作品史がそうし
た圧殺された側の抵抗を記録した映像的証言であることは、ここで強調するまでもあるまい。
 証言であると同時に映像である。
 この具体性はやはり、かけがえのない〈戦後という時代〉の遺産であるに違いない。そうした作品の諸相を言葉によって置換し解析しようとした本書の試みは、類を見ないものだ。これもまた別様の証言として評価されるべきだろう。  

『ミュージックマガジン』1994.12

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