SSブログ

リビング・OFF・東京・タイム 4 [afterAtBL]

つづき リビング・OFF・東京・タイム 4

 本稿はまだ続くが、紙数は尽きた。『非情城市』のファースト・シーンの背景に、ヒロヒトの玉音放送が流れているように、まぎれもなくこれは候孝賢という台湾人作家による日本映画であるということ。
 そしてまた『桑の葉』に描かれる日本人官権が、第二部、第三部と進むに従って一層、リアルな像をもたされてくることに注目するなら、これを日本映画として観る視点は明確にされるだろうということ。

143a.jpg143b.jpg143d.jpg

143e.jpg143f.jpg



143h.jpg143g.jpg

 それらを考察したあと、もう一度、第一の方向の検討に戻る。日本の中のアジア――寄せ場にカメラをもちこんで、二人の作家を白色テロルに喪いながらも製作された『山谷(やま)――やられたらやりかえせ』について再考するプランだった。残念だが機会をあらためる他ないようだ。
 『山谷――』は現在、制作上映委と筑豊の支援グループとの間によるじつに消耗な論争途上にあって、上映の機会を失っている。わたしは単なる部外者だがその議論の不毛さの中にこそダイヤモンドの燭光をみつけていきたいと願う者ではある。

as02b.jpg       
「ImageForum」 1993年5月号


追記2015年 中途半端に終わっているのは、たんに、枚数制限をきちんと守ったからだ。「3」のところで風呂敷を拡げすぎてしまった。収めるには、およそ倍の分量が必要だったろう。雜誌掲載時のタイトルは「映画の日本はアジアをいかに消費するか?」。
 編集部による次の紹介文が付された。
《アジア映画の「パワー」は未だ休むことなく日本の映画観客を魅了し続けている。一方、在日アジア人の存在がますます顕在化するなか、かれらの姿を描く日本映画も増えてきた。だが、こうした
観る側と作る側による「アジア」の受容の有り様は、現実の政治経済軍事的力学の変動のなかで、何らかの変質を遂げつつあるのだろうか。今「アジア」はいかに消費されているのか、そのイデオロギー的基部を評論家の野崎六助氏に解剖してもらった。》


 さらなる追記は、ホームページに転載したさいのもの。2002年あたりの執筆か?

 追記 ここで少しふれた映画『山谷』に関する「論争」は、さらに延々とつづき、佐藤満夫の戦死十年の記念集会にまで持ち越された。結論からいえば、同集会における映画上映は或る党派による焦点の狂った恫喝によって中止のやむなきにいたったのである。『山谷』を「差別映画」として非難する者らの立場は、論争による望ましい解決を拒絶し、最悪の新左翼政治の作法による決着にまで突っ走ってしまった。彼らセクトの諸君は、もし製作上映委が同集会において映画を上映するなら上映委のメンバーをテロる、と宣言してきた。
 彼らの文化運動にたいする介入は、彼らがもはやそこにしか依拠できない「内部ゲバルトの論理」によって最終的に正当化された。映画制作は、その牽引者だった佐藤と山岡強一とをやくざによる暗殺テロで失い、その十年後にまた、薄汚い党派「政治」の引き回しによって蹂躙されてしまったのである。

 どんな映画であるにしろ完璧な公正さを身につけているわけではない。『山谷』において議論を呼び起こした部分にしても、監督の山岡がめざした表現の不充分さは容易に指摘できるだろう。しかしそれはあくまで表現の内部で解決されねばならない問題である。「上映を許さない」という立場が物理的な力を持つことは一つの退廃いがいのなにものでもあるまい。
 ましてやそれを党派の暴力によって屈服させるに到っては、いったい何をいうべきなのだろう。

 しばらくの凍結期間はあったが、次の年から『山谷』は上映運動を再開している。現在も、小ホールにおいて定期的な上映がもたれているようだ。

(この映画についての原理的な考察は、「略奪された映画のために モ一ニングテイク」に再録してある)。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。