ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。 映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1979年8月20日
ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』
テアトル新宿
『イノセント』との二本立て。
原題は「オブセッション」。J・M・ケインとヴィスコンテイがどうぶつかるのか。この機会を逃してはもう観られないとの妄執(?)に背中を押されて、無理を重ねて出かけたのだが……。
ひたすら重かった。どうも。
ここには『ベニスに死す』や『異邦人』のヴィスコンティではなく、ネオリアリスモのヴィスコンティがいたわけで。
犯罪は引き合わない? もしくは、罪を免れるチャンスは一度きり?
前日、横浜寿町夏祭りで野外テントの曲馬館芝居公演。出し物は大南北の『四谷怪談』のダイジェスト。その準備もあって八月に観た映画は、この一回二本のみ。
まだ頭も身体も芝居のほうにあらかた残っていたんだろう。
七月は、それでも四回十本だった。『もっとしなやかに もっとしたたかに』など。
ニック・ノルティ『フール・ストップ・ザ・レイン』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。 映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1979年7月22日日曜
カレル・ライス『ドッグ・ソルジャー』
三鷹オスカー
ニック・ノルティが最も輝いていた映画。
クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのテーマ曲「フール・ストップ・ザ・レイン」もぴったり決まっていた。
ヴェトナム帰りのはぐれ者がまきこまれるガン・ファイト。話しそのものはどこにでも転がっているけれど、ノルティとCCRとカレル・ライスの演出に撃たれた。
併映は、クリント・イーストウッドの『ダーテファイター』。
そしてジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』。
『ゾンビ』のおぞましいショックは三年殺しの必殺技みたいにジワジワと襲ってきた。
と考えれば、強烈な一日だったのである。
今村昌平『復讐するは我にあり』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。 映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1979年7月3日火曜
今村昌平『復讐するは我にあり』
テアトル新宿
ロードショーではなく、いわゆる二番館公開。
緒方拳サイコー、倍賞美津子もサイコー、三國連太郎もサイコー。
併映は『限りなく透明に近いブルー』だった。なんとか最後まで我慢して観る。
その前の週に、イマヘイ映画を集中して観た。初めての作品もあり、圧倒的に満腹した。
満腹しっぱなしで『復讐するは…』に突入したという次第。圧倒されるのも当たり前だったか。
番組は――
6月26日火曜 『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』
6月27日水曜 『豚と軍艦』『果てしなき欲望』
6月28日木曜 『神々の深き欲望』
マイケル・チミノ『ディア・ハンター』 [日付のある映画日誌1979-81]
菅原文太、ジョニー大倉『総長の首』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。
映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1979年4月12日木曜
中島貞夫『総長の首』
新宿東映
東映オールスター・キャストの任侠大作には、もはや何の期待もかけられない。ということをまたまた確かめに行ったようなもの。現実の山口組三代目組長狙撃事件などとの距離が近すぎる。
ジョニー大倉がひどい役で出ていた。
けれど『総長の首』の唯一の取り得は、ジョニーの歌う主題曲だった。
役は最低だったが、テーマ曲で救われた。
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文太、ジョニー、相次いで逝ってしまった。
想い出してみれば、『魂と罪責』第四章9「ヤクザ映画と在日」の項目、253Pあたりに、この作品のことを書くべきであった。が、執筆時によみがえってこないほど、この作品については失望していたのだったか?
星の数ほどヤクザ映画を観ていたので、一本ごとの印象などはじつにはかないものに化している。……とはいえ。
『ファイブ・イージー・ピーセス』 三鷹オスカー [日付のある映画日誌1979-81]
リナ・ウェルトミューラー『流されて』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。
映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1979年3月12日月曜
リナ・ウェルトミューラー『流されて』
テアトル新宿
流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて流されて
無人島に女主人と二人きりで漂着した下男が……
あとは説明しないでもわかるでしょう。
エロ映画の定番。
一種の流行語だったね、これ。
流されたい、流されたかった70年代も押し迫ってきて。
併映は、大島渚の『愛の亡霊』。といって、前作『愛のコリーダ』も評判を聞くだけでまだ観ていなかったし、吉行和子の魅力? 年増の良さがわかるほど修業をつんでなかったしで。
松田優作『殺人遊戯』を観た日 [日付のある映画日誌1979-81]
ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』 [日付のある映画日誌1979-81]
30年遅れの映画日誌。
じっさいは35年以上にもなるか。
なんとまあ。
映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代に。
1978年12月1日金曜
ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』
岩波ホール
神保町の角の岩波ホールに文化的ステイタスを感じるというオノボリサン感覚にいまだひたっていた。それくらいに京都という地方都市の映画を観る環境は低レベルにあった。
東京と京都を月に何度も往復するような暮らし。交通手段は主に深夜バスだった。座り心地はいまほどよくない。朝早く八重洲南口の地下で洗顔すると、ここは首都なんだと納得できた。
東京では一年ほど宿無し状態がつづき……。
芝居仲間の荻窪のアパートで執筆していると、不良息子の行状を探索にきたオヤジと鉢合わせして、窮地に立たされたことも。
最初は、荻窪だけでなく、中央線沿線に土地勘が出来ていった。
いつの間にかたまっていた映画の半券。それらの堆積がそもそもこの絵日記をつくる原材料になった。
想い出は胸飾りのように磨き上げることもできるし、色褪せたまま捨て置くこともできる。
たとえば古い本のなかに栞代わりに挟まれていた古い映画のチケット。二度とひらくはずのになかった本のあいだに眠りつづけていた記念品。死滅した記憶が忽然と蘇えってくる場所とはどこなのか。だれしもが必ずそこへと彷徨いこんでいくのだろうか。
収集家が所有する宇宙についてベンヤミンが何か書いていたはずだ。昔の著作集をめくったが、次のような一行しか見つからなかった。
記念品は体験の補完物である。そこには自分の過去を死財として記録しておく人間 の暫増する 自己疎外が沈殿している。『セントラル・パーク』116p
ちょっと違うな。こういう感覚じゃない。近いようで遠い。
収集品は凍りついた記憶を溶かす。